ウテナ考察:「棺」について
以下はオカルト混じりのかなり飛躍した考察になります。あくまで一つの考え方としてご理解の上、お読みいただけるようお願いします。
両親を亡くし絶望したウテナは棺に入っています。
幼いウテナ曰く
「隣に棺が並んでるでしょ。お父さんとお母さん、今日死んじゃったの。でね、棺が一個余ってたの。これってきっとあたしの分なの。」
との事ですが、もう少し想像を広げてみます。
あの時点のウテナは両親と同じく故人だったのではないでしょうか?
そもそも「天上ウテナ」という人物はどんな生い立ちだったのでしょうか。
両親を事故で亡くし、教会でディオスとアンシーに出会い、その後は?
鳳学園に来る以前は誰とどんな生活をしていたのか、という事です。
例えば、親戚に引き取られ幼少期を過ごし…、だとか、施設に引き取られ…、だとか。あの豪華な学園に入学するにはそれなりの経済力を持つ支援者がいると思われますが不明です。ウテナはアンシーと共に幹に勉強を教えてもらっているほどなので、成績優良者とも思えません。スポーツは万能ですが、特定の部活には所属していません。スポーツでの優遇を得られたとも考え難い。
「天上ウテナ」というキャラクターのバックボーンが不明なのです。
「親」の不透明はウテナに限りません。
鳳学園は全寮制の学校のようですが、初等部の石蕗までもが寮に住んでいる事にまず違和感を感じます。
冬芽と七実には富豪らしき両親がいますが主に過去回想シーンのみの登場で、顔は黒塗りです。直接ストーリーにも絡んではいません。
樹璃も庭に噴水があるほどの豪華な屋敷(又は寮?)に住んでいるようですが、両親の姿はありません。お手伝いさんですら登場しません。
唯一、幹と梢は両親の離婚の件で父親らしき人物が登場しますが、電話を通して会話するのみで、描写されるのは後ろ姿です。傍には真っ赤なドレスを着たアンシーがいます。何らかの作為を感じさせます。
何よりも、退学処分を受けた西園寺が「行き場を無くした」と若葉の寮に身を寄せている事に大きな疑問を感じます。未成年ならば通常は実家、保護者の元に帰るのが自然と思われますが、まるで帰るべき場所が存在しないかのようです。
キャラクター達の「親・保護者・大人」の存在が徹底的にボカされているのです。
物語上、必要の無い描写を省いたとも考えられますが、これは意図的に描写していないと考えるのが自然ではないでしょうか。
そしてボカされているのは、親の存在だけではありません。
物語が進むにつれ、違和感を感じなかったでしょうか。
「物語の舞台が、ほぼ鳳学園の中だけで完結している」点です。
学園の外部の描写が極端に少ないのです。
物語前半「七実の卵」や「若葉繁れる」では学園からの帰り道に若葉や七実がそれぞれ街中を歩くシーンがありますが、ウテナがアンシーと共に理事長室の一室に移り住む物語中盤以降はそれらも無くなります。ある種の息苦しさ、閉塞感すら感じます。
唯一、暁生だけが暁生カーで「外界」を自由に行き来しますが、その背景は延々と続く平坦な闇の中です。現実感がありません。
これらの事象も、学園の外が描写されないのではなく、学園の中しか存在しない事を示唆しているのではないでしょうか。
飛躍します。
鳳学園は転生前の魂が集う場所、生と死の狭間の世界であり、生徒らは産まれてくる事を逡巡している魂だったのではないでしょうか?
キャラクター達が現世と隔絶された学園内に魂だけで存在しているとすれば、肉親が存在しない事は不自然ではありません。また、「世界の殻を破らねば、我らは生まれずに死んでいく」「我らは棺の中にいる。彼女もまた、棺の中にいる」これらの台詞も物語を彩る暗喩ではなく、そのものズバリの直喩だったとは考えられないでしょうか。
考察「その1」にて、鳳学園内は時間の遅延によってほぼ時が止まっている としましたが、生と死の狭間の世界であるとすれば、時間という概念自体が存在しないという事も考えられます。
以上の事から、
- 学園 = 魂の待機場所
- 学園を去る = 生まれ変わり、新たな誕生
という仮説を立てた上で、最終話での棺の中のアンシーとウテナが交わした会話を考えてみます。
「君を助けに来たんだ。君に会うために、ボクはここまで来たんだ。だから、君とボクの出会う、この世界をどうか恐れないで」
2人とも幼い声である事から、ウテナがディオスに導かれアンシーと出会った時に交わした会話とも考えられますが、そうすると当時2人は初対面である事から 君に会うためにここまで来たんだ の部分の辻褄が合いません。
これは「ウテナ」「アンシー」というキャラクターとしてのセリフではなく、2人の「素」の会話、魂と魂の対話だったのではないでしょうか。
そして
君とボクの出会う、この世界をどうか恐れないで
『この世界』とは、やがて産まれ、生きて行く現世・現実世界のことではないでしょうか。
両親の葬儀で棺の中にいるウテナと冬芽・西園寺の交わす会話シーン。
ウテナ:開けないで!お願い、開けないで。
西園寺:こんなところに隠れてたのか。
冬芽:みんなが君のことを探しているよ。
ウテナ:ここにいること誰かに話した?
冬芽:いや。誰にも言わないよ。
西園寺:おい!
冬芽:オレはいつでも女の子の味方さ。フェミニストだからね。
西園寺:でもどうしてこんなところに隠れているんだい?
ウテナ:ここがあたしの場所だから。
西園寺:どういうこと?
ウテナ:隣に棺が並んでるでしょ。お父さんとお母さん、今日死んじゃったの。でね、棺が一個余ってたの。これってきっとあたしの分なの。生きてるのって、なんか気持ち悪いよね。
冬芽:そう?
ウテナ:そう。気持ち悪いよ。どうせ死んじゃうのになんでみんな生きてるんだろう。なんで今日までそのことに気付かなかったんだろう。永遠のものなんて、あるわけないのにね。
西園寺:永遠のもの?
ウテナ:だから、もういいの。私はこの棺から出ないの。
西園寺:でも、そのうち誰かに見つかっちゃうよ。
ウテナ:そしたらまた別の棺に隠れるわ。もう誰にも会わないの。お日さまの下にももう出ないの。
痛々しい程の生への拒絶です。ウテナは両親の死という悲しみのあまり「生きること」自体を否定してしまいました。
生きていてもいつか死んじゃうなら、もう生きなくていい。何も変わらない、不変のもの、永遠のものなんかあるはずがない。
そして幼いウテナはディオスにあるはずのない『永遠』を見せられます。その正体は「永遠に苦しみ続けるアンシーの姿」でした。
アンシーを苦しみから解放したい、と決意しウテナは棺を出ます。アンシー、そしてディオスとの出会いによってウテナは救われます。
ウテナ「姫宮!やっと会えた…!」
最終話のウテナは、棺の中にいるアンシーにかつての自分の姿を見ていたのではないでしょうか。
「君を助けに来たんだ。君に会うために、ボクはここまで来たんだ。だから、君とボクの出会う、この世界をどうか恐れないで」
ウテナの「アンシーを助ける」という決意は、鳳学園と暁生からの解放という意味だけではなく、生きるという事を恐れないで欲しいという願いも込められていたのではないでしょうか。
最終話、学園を去るアンシーの発言。
アンシー「今度は私が行くから 必ず見つけるから 待っててね ウテナ」
必ず見つける、という確かな自信は再会の約束を果たしに行く、と考えられます。
ウテナ「ねえ、もし君に何か困ったことがあったら、まずボクに話してよ。何でも助け合おうよ。君とは、そういう友達になりたいんだ。
そして、いつか一緒に…」
お互いが棺の中に居たままでは出会う事はできないけれど、棺から出て産まれる事ができたら。
生きてさえいれば、いつかは必ず出会う事ができる。
そして、いつか一緒にお日さまの下で再会し、輝いた生を謳歌しよう。
2人はそんな約束を交わしたのではないでしょうか。